悲劇の日
私は、優しい友達や、近所の人たちに囲まれて、広島で幸せに暮らしていた。 8月5日。今日も、家族でご飯を食べながら楽しく話していた。 …その翌日、突然幸せが奪われるとも知らずに。 ーーーーーーーーーーーーー 1945年 8月6日 午前8時15分。 私は、まだ幼い弟と遊んでいた。 すると突然、ドカアアアアァン!!というとてつもなく大きな音とともに、爆風が吹き抜けた。 「えっ!?な、なに!?」 私は、逃げなくちゃ、と思い、泣きじゃくっている弟を抱いて、家の方に走り出した。 「…お母さん…!!」 私の家があったはずの場所は、ぐちゃぐちゃになっていた。 そこに、私のお母さんが、倒れていた。 「……逃…げて…」 お母さんはそれだけ言うと、動かなくなってしまった。 もうどうしようもなくて私は泣きながらその場から逃げた。 (お母さん……) 振り返ると、私がさっきまでいた場所、お母さんが横たわっている場所は、もう 火の海になっていた。 後の原爆ドーム、産業博物館の前に逃げてきた私は絶望した。 博物館の前の川は、死体がたくさん流れていて、まさに『血の海』だった。 川には、私の親友や、近所の人が流れていた。 「ああぁ……」 もう私は涙すら出なかった。 ふと、私の抱えている弟を見た。 息をしていなかった。 いつ、死んでしまったのかは分からない。私は、家族も友達も亡くして、何も感じられなかった。 私は、お気に入りだった丘の上にきた。 私も、皮膚はダラダラになっていて、もう死にそうだった。 丘に穴を掘り弟を埋めて、私はゆっくり立ち上がった。 広島の街が見渡せるその丘から見える景色は、私が知っていたものではなかった。 建物はもう原型を取り留めておらず、人がたくさん死んでいた。 力が入らなくなって、私はそこに倒れた。 ーーーーー 8月6日。私や家族、広島の街に住んでいた人々は死んだ。 生き残った人々の心も殺された。 『もう二度とこんな酷いことを繰り返してはいけない。後世に伝え続けなければいけない。』 今の日本人の義務はそれだと私は思う。
みんなの答え
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そうだね、8/6
ルーナさんはその当時いなかったけれども、その様子を想像でも鮮明に書けています。 すばらしいです。 8/6、もうこのようなことが起こりませんように。