ただ君に晴れ
僕は一人、狭い東京のアパートで、故郷を思い出している。薄暗い部屋の中、天井を見上げて。 まだ梅雨の影が残る、浅い初夏の夜だった。 目を閉じて思い出す。目が覚めるたびに聞こえる波の音、通学路の笑い声、遠くから流れるラジオ。今でも鮮明に脳裏に浮かぶ。自分のことが分からなくなって泣きたくなるような日々の事も。真っ白な進路表も。今日が始まる息苦しさに潰れそうな自分を。今でも容易く思い出せる。なんて情けないのだろう。今更だったのに。なんで。なんで。 忘れたかった君を思い出してしまったのだろう ずっと一人だと知りたくなかった。ほんとうは分かっていた。だけど、君は僕よりずっとまっすぐ前を見ていた。夕凪に包まれた二人のバス停のそば、夜に染まりかけていた。口に出して確かめられなかった。諦めてしまった。 「一人じゃ、ないよね?」 月が水面に揺れている。 故郷の記憶は、いつも夏のにおいがした。写真や思い出なんて意味がない。分かっていたけど。どうしてもそう、思えなかった。 記憶にすがっていたかった。ずっと、思い出していたかった。過ぎるほど美しくなっていく記憶を見ていたかった。前に歩みを進める人たちが、理解できなかった。 記憶に囚われるのは悪いことだと皆言った。 流れに押されるように、大人になってしまった。無表情に、どこかいつも焦るように生きる東京に来た。俯いて生きてきた。 思い出すのが、いつの日か辛いことになっていた。君のことなんて、忘れていたかった。 情けない僕は、言えなかったけど。 「僕たちは一つだから」 それだけでもういいから。 思い出すことは一人じゃないから。 日に日に美しくなっていく君の記憶に。 ただ君に、晴れぬ空などないことを。 窓の外の空が白みだしていたことにやっと気がついた。