ジェンガ
「ああ、いらんこと言っちまったなあ……」言葉の振動に相乗して、床の冷たさが背を這う。 右腕に圧迫されていた眼球が、シーリングファン付きの四つの電球を、点、点と追いかけた。ファンはもう長らく回しておらず、埃がひどかった。 灯りの四つ目を数え終わる頃には、きっとアイツは消えるのだ。 そんな呪いを一人、戯言のように唱えてみる。まだ日は昇っていない。薄明るい空の澱と共に、身体の沈んでいく錯覚をした。 ふと、爪先に硬い何かが触れた。それは、ジェンガの一欠片だった。そうだ、昨日の夜。どこからか、アイツはジェンガを出したのだ。「どう?」なんて、あまりにファジィな物言いをして笑ったのだ。 それで昨晩、二人でジェンガを積んでいた。優しく、愛を添えるように、ゆっくりと積み上げていった。じんわりと温い空気が湿っていた。積み上げる度に、それとは対照に心根の枯渇していくような感覚が、嫌に心地よかった。 一つの塔が完成した。愛で飽和した、くだらない塔である。 ここからは、どうするべきか分からなかった。四つの目は、実に長い間、積み木の輪郭内の座標に視線を彷徨わせた。時の食傷を覚えたとき、心臓のあたりからは、心地よさなど一切消え失せていた。 「つまらない、なあ?」喉から声が漏れた。 「そりゃあ、そうだろうさ」すぐに、アイツの声が同意した。「だって、ジェンガだもの」 なるほど、確かにそうである。これは、単なる積み木ではない。それを崩さないように木片を引き抜いていく、そういうものなのだ。 「それならば」と、早速一つ引き抜いてみる。木片は、足場を一切ぐらつかせることなく、するりと手の中に収まった。たったそれだけのことで、心底から満たされるようで、また高揚感が湧き立った。 今度は、アイツが木片を突いた。そのときに手爪の触れるのが、夏の空気に響く。やがてそれは、閑静な床を叩いた。その木片から、床の冷たさが伝わってくるような気がした。 この機械的な動作は、交互に澱みなく続いた。それぞれが、引き抜いた木をまた上に積み上げた。それはまるで、贖罪をしているようだった。 ジェンガというのは、初めのうちは、こんなふうに簡単に進んでいくものである。軽い気持ちで引き抜いていけるものなのだ。 ところが、それもある程度続くと、土台が不安定になってくる。それなのに、また上に積み上げていくから、余計にぐらつくのだ。そうとは分かりつつ、木の欠片を一つ置いた。 「なんで……こんなこと、してんだろうな」イタリアのピサにある塔を連想しながら、虚しさを言葉にした。 アイツは答えなかった。ただ、また同じことを繰り返すのみだった。静かな夜が続いた。蒸し暑いのに、ジェンガの木の乾いた音が響いた。 ついに、動きは止まった。それが崩れるより先に、こちらが手を止めたのだ。耳の奥で産毛の戦ぐのが聞こえ始めたとき、アイツは言った。 「二人して続けていたら、いつの間にか、やめ時が分からなくなるものだよ」木の欠片みたいに、声は乾いていた。「最後には何があるか気付いているのに、終われないんだ。ほら、君の番だろ」 その言葉の意味を理解しかねたため、それを誤魔化すように遊びを再開した。それが結局、アイツの言う通りになる。 「……オマエの言うことはつまらない」声が漏れた。半ば八つ当たりでもあった。気分のよくなる感じがした。 そのとき塔は、これまでになく大きく揺れた。穴だらけで、不恰好で、やはりくだらない。そんな、愛で飽和した塔が、右に傾いた。斜塔の映像が、眼前に再生された。 それが九〇度に倒れたとき、木片たちは悲鳴を上げた。暫くして、また静かになった。 それらを、口角を引き締めたまま見つめたが、アイツの目をまっすぐ見ることはできなかった。自分の眼球が乾くのを自覚する。アイツは何も言わなかった。視界の端で、その左目だけがこちらを覗いていた。それが、何よりも今朝の脳を支配していた。 もう一度、シーリングファンのライトを数えた。違う。数えられなかった。それは、考えてみればごく当然のことであった。 四つ目を数え終われば、アイツが消えてしまうのではない。アイツが消えたから、四つ目が数えられないのだ。あの、最後の知り得ぬ右目を、これからも知ることなどできないのだ。 愚かな後悔に滲む眼を隠すように、腕をそれに再び押し付けた。 〈あとがき〉 人間同士の愛情の蓄積、言葉によるそれらの崩壊を、ジェンガを用いて比喩的に表現しました。それぞれにとって最も身近な関係を思い浮かべていただくために、愛情の種類(親子愛、友愛、恋愛など)や性別は特定せずに書いています。
みんなの答え
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すごい…
人間関係をジェンガで表現…すごい発想ですね… 一つ一つの場面の表現の仕方もとてもかっこいいと思いました。 文章が丁寧に紡がれている感じがとてもいいなと思いました!