自覚
遠くにある街柱が白く薄暗い色で光っている。その光がなければ私はきっと前も後ろも見えなくなってしまうであろう。一応見える位置に家はあるのだが、人の気はなく、隣で小さく聞こえる川の流れる音と私の足音以外私の耳には届いてこなかった。 私の左側には背の高いフェンスが並んでいる。おそらく夜に間違って川に転落しないように設置されたものだと思う。私も足を滑らせてこの川に落ちたんだ。 私が色々なことを考えながら家路をゆったり歩いていると、急に後ろから変な気配を感じた。それは、何とも言葉にしにくいような雰囲気で、とにかく気持ちの悪いものとしか言えないような代物だった。振り返って確かめたかったが、その勇気は私にはなくてどうしようもない。とりあえず私は足を早める。 少ししただろうか、私の体が疲れ始めた。一刻も早くその気を振りほどきたかったのだが、なぜかそれは一向になくならない。というか、ますます気持ち悪さが加速していっている気がした。足音は聞こえないのに、どんどん私に近づいてくる。私の背後から私をどんどん蝕んでいるみたいだ。 私は一瞬だけ後ろを振り向いた。よくよく考えれば、それが人でも何でも私に危険をもたらすものであることに変わりはないはずなので、私が振り返って確かめる必要など無かったのだ。それなのに、私は振り向いてしまった。 それは黒いかたまりであった。 その黒いかたまりは、私の顔を追いかけるようにして近づき始めた。私はそれが無性に怖くて振りほどこうと必死になって走り逃げ回ったが、距離を離せそうにない。私は一生懸命足を動かす。冬の冷たい空気が鼻を刺しているはずなのに、私はそれを感じられなくなっていた。まるで体全体の感覚が無くなっているかのようだった。 全力で逃げていたつもりだったが、その影は私のすぐ背後を追いかけ、私の体を乗っ取りでもするかのように襲いかかってきた。 「やめてっ!」 私は暗闇の中、咄嗟に大声で叫んでいた。自分の身を片手で包み、手に持っていた白くて重いカバンを力いっぱい振り回す。カバンは横にあるフェンスに当たって傷つくはずだったが、私はそれに構いもしなかった。体は私の意思に反して動かなくなり始めたが、それでも私は抵抗していた。 とても、とても怖かったからだ。その黒いかたまりに飲み込まれては、きっと私は消えたくないのに消えてしまう。根拠などあるわけがないが、その漠然とした感情はきっと適当なんかではない。私の思い過ごしではないはずだ。 長い間走ってカバンを振り回していた私の体はもうすでに限界を越えている。私は足から力なく崩れ落ちた。不思議と息は切れていなかったが、体がとてつもなく重い。そして、とても寒かった。 「……追い払えたかな」 私は左右を何度も確認してそう呟いた。その黒いかたまりの気配はすっかり消え落ちていて、気持ち悪さも無くなっている。一体アレが何だったのかは分からなかったが、取りあえず助かったのか。私はカバンを握りしめ、ため息をついた。 そのときだった。私の視界が真っ黒に覆われていく。あの薄暗い街灯の光をも遮断し、私の目にはもう何も届かなくなった。 「っ……!」 振り絞るように出した声もすでにかすれ、静かに消えていく。 私がどうしようもなくうなだれていると、ふと真っ黒な闇の中に私の寝たきりの姿が浮かび上がった。無機質で真っ白に染め上げられた部屋に、私が動くこともなくベッドに横たえている。そして、隣には一人の男が静かにたたずんでいた。私の細く病弱そうな腕をなで、顔をなで、手をとってくれたあの男。 ……ああ、私はもうあの黒いかたまりに取り込まれてしまったのか。気づくのが遅すぎた。 全てを、思い出した。これは夢だ。 私の足はすでにもうなかった。手も、頭も、胴体も、全てが麻痺して動かなくなる。それを認識する脳でさえも、すでにこの世から隔離されているようだ。 黒いかたまりは私を飲み込んでしまった。私はきっと消えていく。この世に私は二度と戻れることはないだろう。 そうか、黒いかたまりは、もしかしたら私自身だったのかもしれないな。 遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえるような気がする。泣き叫んでいるようで、なんと言っているのかは分からなかった。私はふと止まったはずの心臓を握りたくなる。胸を押さえて、その声に応えそうになる。私も彼と一緒に泣き叫びたかった。 でも、もう声は出なかった。 私は、もう消えてしまったんだ。