何かおもしろい歴史の話は無いですか?
こんにちは!見てくれてありがとう! 空でーす!ちょっとテンション高いけど許してください! 笑 ー本題ー カテゴリ合ってるか、わからないけど、 夕イ卜ルの通りです! 最近、夏休みの宿題で歴史のことを調べてて 少し歴史のおもしろみを知りました。 何かおもしろい歴史の話を知っていればおしえてもらいたいです! ぜひぜひいっぱい書いてください! それでは^^さよーならー
みんなの答え
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日本海海戦
日本海海戦最高
無題
「○藤」の話ですが、実際は職業であったり、明治時代に名字をつけることが許可された際に無関係の農民がこぞって藤原の子孫を自称しただけで、本当の子孫はみんな神官をしていたと思います。(源平籐橘も同じ理由です。)ちなみに佐藤は「左衛門」が元となっていて、それに権威付けに藤原「藤」を入れただけです。「工藤」も木工に携わる方が自分につけた苗字です。99パーセントの「○藤」さんは藤原氏との血縁的なつながりはほぼないので、ご理解よろしくお願いします。藤原氏との血縁があることで有名な家は、(ここから書くのはガチの子孫ですが、殆どが神官をしているため、自分の苗字と同じだけという場合もあり得ます。)五摂家と言われる近衞、九条、二条、一条、鷹司です。
◯藤の話
日本には加藤や工藤などなど、◯藤という人がいっぱいいますが、その人達全員中臣鎌足の子孫みたいなんです! なんでこんなんなったかというと、 ①中臣鎌足の子孫の藤原氏大量発生。 ②藤原氏1「ややこしいから区別しよー」 藤原氏2「じゃーオレ近江(おうみ。昔の滋賀県。)に住んでる藤原だから近藤(こんどう)。」 藤原氏1「あーそれいい。◯藤サイコー!」 という感じで住んでる場所や位から一文字とって、藤原の藤につけてったからだそうです。
続きです
ここでイギリス軍はものすごいことをします。 なんと偽の死体に情報を持たせてドイツに流すことにしたのです。 まず服毒○殺した死体を用意しました。 その死体に軍服を着せました。 で、ここから設定に入ります 彼は飛行機に乗って前線を飛んでいたが、仕事の疲れが墜落してしまう。 そのまま死体がドイツに届いて機密文をゲット。 というものです。 HeinkelというYouTubeチャンネルで紹介されているので見てみてください。
もう一回書くね
二つ目 イギリス軍のとても慎重な作戦 時は1942年。 北アフリカにイギリス軍が上陸することにしました。 ですがそこにはドイツ軍の主力部隊が展開していました。 そのままだと被害が多くなってしまうので別の場所に上陸するとおもわせるようにしました。 続きも描きますね。
これはどう?
1940年代、大日本帝国海軍所属の戦艦陸奥 (むつ)が停泊していました。そしてその時陸奥には沢山の飛行予科練習生が乗っていました。 時間は正午、陸奥は3番砲塔(前から3つ目)から急に発煙。 その後爆発し陸奥は転覆。 沢山の飛行予科練習生が亡くなりました。 その時近くにいた戦艦扶桑(ふそう)は爆発を見て鎮守府に「陸奥、バクチンス」と電文を打ったそうです。(ちなみに扶桑艦長は潜水艦の攻撃だと思ったそうです)
あまりおもしろくないかも・・
上杉謙信女性説 あまりおもしろくないかもしれないですが、こういう説があります。 【根拠】 ①上杉神社には上杉謙信の衣類が残されていてそれらが真っ赤だったから。 ②大虫という婦人病にかかっていたから。 ※実際に大虫神社というものがあり、女神が祀ってあって、それが婦人病の神であったから。 ③戦の時間でもトイレに行き家来に「絶対に覗くな」といったから。 ④ゴンザレス報告書で「会津の上杉(上杉景勝)の叔母」と書かれてあるから。 まだ色々ありますが主なことはこれです。 面白くなかったらごめんなさい。
歴史大好き!
どうもまにちんです。 面白い歴史ね……… 私は6年生なって歴史始めたばっかで、平安時代のとこまでしかいってないけど 、やっぱしあれかな、武田信玄と上杉謙信の話かな。 今川義元が信玄に嫌がらせで、信玄の軍に塩が来なくなったときに、上杉謙信が(ライバルだよ)塩を送ったてやつ。 そこから信玄と謙信は「実は仲が良かった」か、「実はすっごい仲悪かった」説があるんだとね。 私は仲いいほうが嬉しいかなー まあこんなとこかな、長々と失礼しました。
あ
ドーバー海峡のユーロトンネルの話はナポレオンの時代からあったが完成したのはもっと後。ちなみにユーロトンネルには日本の青函トンネルの技術も使われています。
すみません!遅れましたが付け足しです!
すみません、急遽付け足しさせてもらいます! 実は劉邦の側近として有名な張良、韓信は実際は項羽に何度も大敗しており、とても「国士無双」といえるような活躍は少ない。しかしなぜかその二人は推水(多分漢字違います。)の戦いという劉邦最大の敗北を喫した合戦にはなぜか参戦していないことになっている。 楚漢繋がりで行くと、実は項羽はかなりいい人で、当時流行していた呼び出しでの暗殺を毛嫌いし、范増の再三の願いも一切受けなかった。 ちなみに、項羽は独裁者と言う面は一切なく事実、垓下の戦いの直前、楚の城に援軍を求めたところ、ほとんどの城が援軍に馳せ参じたと言います。 覇者、文公(重耳)は、楚にかくまってもらっていた頃、王に何をくれるかと聞かれたので、文公がもし楚と戦になったら三舎退く(三日分の距離)と言いました。後にやむなく楚の将軍、子玉と戦うことになった際、文公は圧倒的優勢にも関わらず、ちゃんと約束を守って三舎退いたと言われています。良い話ですね!!