袖振り合う
俺は、爆音で音楽を流しながら車を走らせていた。目的地は長篠崖。柔らかな歌声が車を突き抜け響き渡っている。家からここまで、対向車や歩行者達は顔をしかめてこちらを見てきた。 ーー分かってるよ、うるさいって言いたいんだろ。 俺は舌打ちをして睨み返す。大抵の相手はそれで目線を逸らし、何もなかったかのように通り過ぎていく。 だが、そいつは違った。何故か目を輝かせて俺を見ていた。 近づいて来る。窓を叩かれた。ここは長篠崖近く。今は午後10時。最近警備が厳しくなったと聞いていた俺は少し身構えた。 「ちょっといいかな?」 俺が窓を開けると、そいつは前のめりになって話しかけてきた。やはり警官か。 「なんですか」 努めて冷静に答える。そいつは車のスピーカーを指差して言った。 「好きなの?水面恵梨亜」 「は?」 思わず声が裏返る。確かに、先程からかけていた曲は全て水面恵梨亜という歌手のものだ。 「まぁ、はい」 そう答えると、そいつは更に目を輝かせる。 「いいよね、水面恵梨亜!僕も好きだったんだー!」 まるで、子供のような様で両拳をブンブンと振る。 水面恵梨亜は、俺が中学生のときに大流行りしていた。だが、数年前、ずっと続いていたアンチのコメントにとうとう精神を病み、引退してしまっている。 「ねぇ、どの曲が一番好き?」 顔を覗き込まれる。数刻前の俺なら力ずくででも追い払っていたはずだが、その無邪気な声に張り詰めていた心がふっと解けた。まぁ、いいか。人生最後にこんな出会いがあっても。 それから、近くの飲食店まで二人で行き、色々な話をした。 ーー実は俺、もう全部終わりにしようと思ってたんだ。長篠崖から飛び降りて。 話しているうちにすっかり警戒心が無くなり、ついそう口にしてしまった。そいつは驚いた風もなく、「だと思った」とだけ言った。 それから段々沈黙が増え、なんとなくお開きの雰囲気になった。名前も伝え合わないまま、手を振って別れる。 俺は、長篠崖へ車を走らせた。 着くと、そこには一つ、人の影があった。俺はそれに近付き、そっと肩に手を置いて、「少し、話をしないか?」と声をかけた。