宝物
「ただいまー」 誰もいない家に向かってただいまと言うのは、何回目だろう。 お父さんは交通事故で亡くなった。お母さんは看護師で、病院に泊まって働くことも多いため、家にはほとんどいない。 悲しいけれど、誰も悪くないのだから、文句なんて言えないし、言うつもりなんてない。 だけど、やっぱり寂しい。 そう思いながらリビングに向かうと、テーブルに書き置きがあった。 『野乃花へ 今日はお母さんは泊まるつもりだから、夜ご飯は自分で用意してね。 お母さんより』 ところどころ繋がっている文字をぼんやり見ていると、スカートのポケットに入れていたスマホが震えた。 「電話……秋野(あきの)くん?」 画面には、「秋野 隼斗」と表示されている。 てっきり、お母さんからの追加の連絡とでも思っていたのに。 「もしもし?」 『あ、魚住(うおずみ)さん。ごめん、今日って時間空いてる?15分くらいでいいんだけど。』 他の男子よりも早く声変わりした少し低い声を聞くと、心臓がいつもより激しく動き出す。 「えと、今日は1日中空いてるけど……」 『じゃあ、今から学校の近くの駅来てくれない?制服のままでいいから。大事な話したくて。』 話したいこと?クラスメイトだということ以外特に接点のない私に話したいことなんて何があるのだろうか。 男子が、女子を放課後に呼び出して、大事な話をする。それって、もしかしてーー。 「わかった。今から行くね。」 『うん、じゃあ、待ってる。』 顔を真っ赤にしながら鏡を取り出し、制服のリボンを少し整え、髪が崩れていないか確認する。 「よし!」 定期と最低限のものだけ入れてある小さな鞄を取って、最近買ったばかりの靴を履く。 「いってきまーす!」 誰もいない家に向かってそう言う。 もちろん返事は返ってこないけれど、なんだか心が満たされるような気がした。 「隼斗、七海、いってきまーす!」 「いってらっしゃい、野乃花。」 「お母さん、いってらっしゃい!」 大切な家族が2人いるこの家に、いってきますと言って、いってらっしゃいと言われる。 子どもの頃から憧れていたこの日常は、私にとって大切な宝物だ。